私の履歴書 - 青春時代編
自己紹介として、これまでの変遷を記す事にします。
まずは青臭い青春時代について。
中学生活
思春期の真っ只中に友人のレコメンドで尾崎豊に触れた時、頭の中に電撃が迸り、偏った(狂った)人生観をフルスピードで吸収していきました。結果、青春時代は多難の連続でした。
当時の自分を客観的に見てみると、得体のしれない何かに常に怒っていて、自由と愛を探求するなんだか接しにくい人でした。
それでも付き合ってくれた諸々の友人には改めて感謝の意を表する事にします。みんな本当にどうもありがとう。
音楽による自己表現
さておき、ロックという自己表現を手にした末に。”何かが間違っている”
”こうすべきだ”
”真実はどこだ”
といった内容の聞くに堪えない楽しくない音楽を次々と量産していきました。完全に聴衆を無視した自爆テロに値するような代物です。
限定された人間関係の中で洗脳行為を繰り返し、尊い人の人生をとんでもない方向へ導いてしまったり、理解されない事への苦しみにもがく毎日で、絶望感を背負いつつなんとか生きているような、アンバランスさがまた類は友を呼ぶような悪循環。
自分を否定する分子に対しては容赦なく攻撃をし、愛だなんだとほざいていた割に、本質的な愛を全く理解できていなかった当時の自分。
まぁ、青春ってそういうことですよね。
答えを探す旅の始まり
人よりも数倍考えているつもりで、実は世の中を何一つ知らなかったので、地元の工業高校を卒業後は、進路指導の先生に導かれるままに、無難にとある一部上場企業に就職。成績もそれなりに優秀で3年連続学級委員&生徒会&無遅刻無欠席というスペックなので、楽勝です。
パイプ工場の製造ラインに配属されました。
結果的にこれが人生最初の失敗です。
「周囲を見渡せば、腐った魚の目をした連中ばかり。」
当時の言い方をそのまま拝借すればそういう心境でした。ここは自分がいるべき場所では無いと勘違いをし、1ヶ月で会社をドロップアウトしました。今流行の3ヶ月で辞める若者を最先端で実践していたわけです。
足りない頭で自分に何が足りなかったかを必死に考えた結果、単純に勉強が足りないという結論にいたり、大学へ通う事を決意。
当時は工業高校から大学へ進むという選択肢は皆無で、その高いハードル感が熱意に火を点けたのかもしれません。
軽く勉強して今で言うところのFラン大学へ入学、ITと環境が混ざったとんでも学部へ。
親父の影響
なぜ環境かというと、今は亡き親父が「おまえはサハラ砂漠を緑化しろ」という遺言を残していたから。私の親父の事に関してはまた別のエントリにまとめるとして。大学入学
めでたくE川大学へ入学し、毎日必死に勉強しました。朝一番に通学して、一番前の席に座り、片っ端からメモをとり、分厚いレポートを書いて。ここでもまた変なヤツです。
そこで、宗教学や環境倫理についての教養を身につけました。いわゆるマックス・ウェーバーとかレイチェル・カースンとか、当時の自分には小難しくて魅力的だったわけです。
あるいは五木寛之『青春の門』を愛読し、そういう熱い大学生活を求めて胸をときめかせていたのでした。
失恋による自己否定
順風満帆な学校生活、バンドサークルではトップレベルの演奏力でひっぱりだこ、リア充まっしぐらの毎日のでしたが、失恋というビッグイベントを通じて状況が一転します。「1人の人をろくに守れない自分に一体何ができるというのか」
まぁ一理あるといえばあるのですが、もうちょっと気軽に考えられないものですかね。
この出来事をきっかけにして、過去の自分を全否定し、行動パターンを変え、肉体改造を行い、ファッションに力を入れて、ピアスを開けて、頭を赤く染めて、寺本2.0に移行しました。
体重を10キロ以上減量したうえに、服装ががらっと変わったので全くの別人になりました。
結果的に、ライブハウスを貸し切り、振られた彼女を呼び出してみみっちい歌を歌いまくるという手法を駆使して復縁したのですが。。。問題行為ですね。
宗教への憧れ
前述の宗教学への憧れと、底辺な学校への失望が重なり、2.0へのバージョンアップで自信過剰に陥った末、大学転入を画策します。とりわけ仏教思想への憧れが顕著で、そうなると次は仏教学部かとも思いましたが、別にお坊さんになりたいわけではないので中立的に学べる環境、すると東京大学か東洋大学しか選択肢がありません。
さすがに東大をたかだか数ヶ月で目指すのは無謀なので、現実ラインで東洋大学に的を絞って編入試験対策。この辺りの線の引き方が自分の強みかもしれません。
およそ2ヶ月にわたり毎日朝から晩まで受験勉強。
これほど勉強した期間は人生においてこの期間のみです。
理想と違った学校生活
晴れて入試をパスして、2年次編入という扱いで文学部印度哲学科へ入学。そこで待っていたのは退屈すぎる毎日でした。自分の興味対象は思想であって歴史認識ではないので、ほとんどの授業が退屈で、自分のポリシーにあわないものはたとえ必修であってもボイコットしました。
テストの答案に”こんなくだらん授業とテストで何が大学だ”と書きなぐり、落第につぐ落第を繰り返したり。レポートの代わりにデモテープを提出してみたり。(優判定もらったけど)
なんかちがうなー、と思いながら日々都内をぶらぶらと散歩する毎日。
方向感覚ばかりが養われていきました。けど生きてくうえで方向感覚は大事。
学費の問題
うちは裕福な家庭ではないので、学費をなんとかしなければならないのです。それでも理解のある母親なので4年間は助けてくれましたが、さすがに5年目以降はさじを投げられました。営業や作業や、あらゆるバイトをした中で、理不尽な思いを抱いたり、自分の得意分野について気付きを得る事ができました。
が、時間を切り売りしてこつこつ働くのは自分の性には全く合わないと確信したと同時に、その性質のせいでいわゆる世間体でいうところの”普通”に生きていく事は難しく、自分の体で自分の道を切り開かなければならない事に対して現実的な焦りを抱き始めたのはこの頃でしょうか。
株式取引を始める
巷には初めての株式投資みたいな本が出回りまくっていた当時、これも経済の勉強だと思って株式投資を初めてみました。日経新聞読んで、テレ東の投資番組見て、チャートの読み方を研究して。
結果的にテクニカル分析で仕手株専門でしたけど。サハダイヤ楽しかったなぁ。
当時はITバブルの真っ最中。ジェイコムの誤発注もライブドアショックもザラ場(@部室)でリアルタイムに体験しました。
ジェイコムは逆ざやで買いあがっていたら今頃異次元の大金持ちですが、あの状況で買い上がれる人ってまともじゃないです。
ライブドアショックはノンホルダーにも関わらず、長く伸びきった分足チャートと真っ青な画面を見て背筋が凍ったあの絶望的な気持ちは今でも鮮明に記憶しています。
あぁ、これで誰か死ぬな。
お金の問題で人生詰む人がいるという事実に、リアルに感傷的になりました。
社会人への入り口
右肩上がりの市況だったので、少しのバイトと投資益で学費を全額納入し、退屈な日常へ舞い戻り。ふとしたきっかけで学習塾の講師を始めた事により、学業よりも仕事量が多いという状況に一転。
やがて副教室長へ抜擢され、教室運営の根幹を任される事態に。これが実質的な社会人デビューでしょうか。しかし案外社会人も悪くないと思った。自由だったから。
好きなスタイルで、好きな事を、自分の裁量で動かせる。
こういう仕事って楽しいな。
就職活動
一度だけ集団説明会みたいなのに参加してみたが、周囲のノリについていけなかった。よって大学の就職課には一切立ち寄らず、独自で就職活動を開始。
受けた会社はフィーリングで3社のみ。
巷で話題の新しいスタイルの葬儀屋と前述の学習塾と某和物雑貨のベンチャー企業。
葬儀屋(サンクチュアリ)は最終で落とされた。
社長になりたいって言ったからかもしれない。
ちなみに直江さんはいまどこで何をしているのだろう。できればもう一度お会いしたい人だ。
結果、2社から内定をいただき、最初から決めていた塾経営の道を選ぶも、卒業と同時に運営元の経営者が代わり話が立ち消えに。
困った時がチャンスです
1浪2留の既卒25歳、無い内定の4月。この状況はさすがにプレッシャーを感じました。
そしてけじめとしてついに音楽活動を辞め、寺本3.0となり今後の方向を模索し始めました。
社会人編へ続く
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