私の履歴書 - 社会人編

無い内定1浪2留の既卒

25歳の春、無職。完全に宙ぶらりん。記憶の中では人生二度目の挫折。
やりたい事が何もない。

仕方が無いのでインターネット。来る日も次の日も。
そこで気がついた、


ネットすごいかも。

当時はホームページとよばれていた

まだ音楽をやっていたころ、ホームページをHTMLでごりごり構築した経験はある。
でもそれ以上の事はしなかった。技術の事など考えた事もなかった。

けど、色々とwebサイトを見てると、何やら文字を入力できるものやログインがどうだとか、HTMLでは到底実現できなそうな動きがある。

これらはどうやって作るのか。

調べてみれば、phpなる言語で書かれているという。
なるほど、ではphpを勉強してみよう。
早速、php講座と検索する。

完全無料講座でphpプログラマーになれる

そこで目についたのが無料でphpプログラミングが学べますというキャッチコピー。
あからさまになんか怪しいが、まぁやばかったら逃げてくればいいと思いつつ、とりあえず問い合わせてみた。
感じのよい男性が明日来いというので、翌日久しぶりに電車に乗って神保町へ。

生徒から講師へ

これがきっかけとなり、7月よりJAIC主催のphpスクール12期生として講座に参加。約1ヶ月間受講した後、ここでphpの講師をやってみないかとオファーをうける。
快諾の末、9月に株式会社ジェイックに入社。php講師となる。

たくさんの受講生との出会い

13期よりphp講座の授業を担当する。講座には色んな人がやってくる。中にはかなり変な人(自分も含めて)も混じっている。中には今でも親交のある生徒もいる。

そして20人に1名くらいの割合で、とんでもなく出来の良い人材が現れる。彼らは少しの後押しでぐんぐん成長して、あっという間に自分のスキルを飛び越えていく。

一方、何をどうがんばってもどうにもならない人たちがいる。

それを見て、人間には格差と限度があり、努力でカバーできる問題ではないと認識する事ができた。18期ころから数日で成長余力を見抜けるようになった。

最初からできる人だけを厳選して教育する。
この方法で就職内定率は向上したが、とんでもない事に気がついた。


20人に5人しか就職できるレベルに至らないのであれば、
この事業は黒字化できないのでは?

とりあえず内緒にしておいた。

早かれ遅かれこの事業は破綻すると気がつき、自分のプログラミング適正もさほど高くはないという事にも気がついた今、職業プログラマーという道を早い段階で見切り、営業力とディレクションを磨く事にした。
幸い、ジェイックは人材派遣も行っていて、社内にはエンジニアやデザイナーが滞留していた。

受託開発部門の立ち上げ

滞留エンジニアを活用するために受託開発を始めましょう!
(最もらしい理由だけども、自分の都合が大きい)
こうして、受託開発部門が立ち上がり、営業兼ディレクターと講師を兼任する事になった。

事業部存続の危機

開発の営業はそれなりにうまくいったが、思っていたよりも早く人材部門の数字がよろしくない状況となり、その補填はできたばかりの受託開発部門に委ねられた。

結果的に発足3ヶ月目からはとてつもなく高い売上目標を設定しなければならなくなった。おそらく受注したところでそんな数の納品はできなかっただろう、何もかも既に破綻していたんだ。

事業部解散

もう講師でもディレクターでもない、別の部署に行くかと聞かれたが興味が湧かないのでやめた。

この受託開発の営業で、たくさんの会社の社長に会った。
社長というのはさぞかし高尚で、なんか近寄りがたい存在だと思っていたけど、みんな普通の人で、自分の方が物知りだった。

これなら自分でやった方がいいなと思った。
27歳、会社設立へ動き出す。

株式会社ラシーク設立

会社名の由来は自分らしくの”らしく”
いかにも自分っぽいネーミングだ。

仕事が何もない状態で会社だけ作ってしまったが、はたして何をしようかと考えていたところに懐かしい奴から連絡がきた。


「オレ、会社はじめたんですよ」


彼は塾講師をしていた時の教え子、当時はまだ16歳だった。
そんな彼が柏市でPCサポートの事業を始めたという。早速様子を見に行く事に。

遊びと仕事の境目が曖昧で、常に顧客と揉めていた。事業継承に関しても揉めている様子で、私の最初の仕事はいわゆる火消しだった。
火消しが終わることには、彼は仕事に飽きて遊びはじめた。私は粛々と事業をこなして軌道にのせた。そして彼がカードローンの債務超過に陥った際、店舗の営業権を債権とともに買い取った。

PCトラブルサポートの仕事

いわゆる地域密着の頼れる街のパソコンやさん。あらゆる相談をうける。
電球のとりかえやら、ちょっと買い物やら、引っ越しの手伝いやら、もはや何でも屋である。

サービス精神旺盛に好きなようにやっていただけなのだけども、リピーターがたくさんできた。ジェイックにいた頃の言葉でいうとロイヤルユーザという顧客。

優しい顧客の支援に支えられ、こつこつと不調なPCを修理していった。

再び教育の道へ

そろそろなにか新しい事をやりたいなと思っていたところに、助成金による教育事業の話が舞い込んできた。生徒は受講無料でハローワークから斡旋、運営側は生徒1名に対して月6万円の売上を受け取る。これなら広告費がかからない、悪くない条件だ。

教室となる広い部屋と机一式を揃えなければならない。
当然広い物件は家賃が高い、べらぼうに高い、そのうえ保証金8ヶ月とかそんな現金ない。

困り果ててお客さんに相談してみた。
するとすべての問題が一瞬で解決した。力のある大人ってすごい。

そういう人を仲間にすると、自分一人では不可能な事も突然可能になる場合があるという事がわかった。

ビルの4階、坪単価7000円で什器一式付き、保証金無し。
これで教室が始められる。

だだっぴろい教室に引っ越して、一人黙々と講座の準備をした。
まずはPCメンテナンスに関する講座を開いてみた。

パソコン修理技術士養成講座開講

受講者4名、おじいさんとおぢさんとおばさんと清潔感の無いオタク。。
オタクは2日目に突然ドロップアウト。

厚生省は何を考えているのか、ハローワークは何をしているのか、
このメンバーで就職支援など、正気では無い。

3日目からは指向性を変更して、カリキュラムも予定とは違うものにして、幅広い技術を学べる講座に勝手に変更した。webサイト製作やアフィリエイトの受けが良かった。

まぁ、結果的にみんな毎日楽しそうだったのでこれはこれで良かった。

webデザイナー養成講座開講

次は受けが良かったwebサイト製作の講座を開いてみた。今度は募集15名、満員御礼だ。
ちなみにwebプログラミングの講座も同時に募集したが、応募者無し。これはどういう事だろう。

さておき、とりあえず壊れたパソコンを大量に購入して、せっせと修理して講座用にセットアップする。経費削減だ。


今回の受講者も幅広い年齢層、上は60歳~下は16歳、60歳のおばさんにwebデザインを教えて再就職させるとか無茶すぎる。

ところが50歳のおじさんは見事にスキルを身につけた。Fireworksでデザインを製作してDreamweaverでcssレイアウトをコーディングできるようになった。ちょっと驚いた。。


そしてこの講座に参加者の中でも一際異色を放っていた女性が、今の妻である。
人生何が起こるかわからないが、まさかハローワークで結婚相手を斡旋される事になろうとは。。

そして株式会社ラシークに仲間が増えました。

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